1 私の学校
名古屋市立西陵商業高等学校 http://www.seiryo.ed.jp
酒井亘文 sakai@seiryo.ed.jp
今回の共同発表にあたってのキーワード
・相手のことを知ろう
・知ったらよく考えよう
・考えたらわかりやすく伝えよう
・反応があったらきちんと聞こう
・以上のことを行うためのツールとしての英語とインターネット
2 ワールドから得たもの
・オンライン上での交流が、オフラインに変わったときの喜びを生徒に感じさせた
・オンライン交流が、自分の将来を変える原動力になる可能性を生徒に感じさせた
・オンライン交流が、相手の将来を変える原動力になる可能性を生徒に感じさせた
・ツールとしての英語とインターネットの重要性を、あらためて生徒に感じさせた
・・・そして、おみやげにもらったスヌーピーのTシャツ(結構かわいい)
3 国際交流への道筋
これまでの経験
教員になって17年目になるが、「国際交流」と呼べるものは、11年目に西陵商業に転勤してからその機会が一気に増えた。それはとりもなおさず影戸先生というキーパーソンの存在、そしてインターネットの利用である。
前任校では、定期的な海外との交流プロジェクトもなく、「国際交流」と呼べるものは市教委から2週間の期間限定で派遣されてくるネイティブの講師との授業、そしてごくたまに夏休み直前にやってくるワンショットの留学生を迎え入れることぐらいであった。しかし、その世話を英語科の誰がするかとか、学期末で忙しいから面倒だとか、非常に非生産的な話し合いの結果、受け入れ拒否などと言うこともよくあった。英語科の教員が、ネイティブとの交流の機会を自ら拒否していた時代だった。
新任の頃から数年間を振り返ってみると、先輩の英語科の先生方のなかで会話能力を有した人はほとんどいなかった。若造だからということで、前述のネイティブの英語教員やワンショット留学生の世話などが、私のところに回ってくる機会は多かった。
最寄りの駅で彼ら・彼女らを車で拾い、学校までの道中、学生時代に比べてめっきり減った会話練習のチャンスも兼ねて、いろいろな話をした。「ネイティブの授業など受験指導の邪魔でしかないし、自分がまともに会話ができない状況を生徒の前でさらけ出したくない、だから交流を拒否する英語科教員」などの裏事情も全部さらけだしながら、高校での国際交流が大げさなものでなく、もっと気軽にできる日々が来るといいのにねとか、だれでも簡単に自由に使える「国際通信装置とかテレビ電話」がどこの学校にもあるといいのにね、などと話していたのも懐かしい思い出である。
現在「国際通信装置とかテレビ電話」は、インターネットという名で現実のものになっている。
西陵での国際交流は、インターネットの導入以前から、影戸先生のご指導で「国際コミュニケーションコース」の生徒により、「ビデオレター」「パソコン通信による電子メール」の形式で行われてきた。私が西陵に転勤した年の後半から「100校プロジェクト」が始まり、翌年から英語科の授業でも利用を開始した。
最初に行ったのが、アメリカ・カナダ・フィンランドの3カ国の学校に、「生徒の日常生活に関するアンケート」を送付して1週間で回収し、日本側の生徒の回答と併せて一覧表にして、類似点・相違点などを軸に感想を書くというものであった。送付先は、「100校プロジェクト」の運営組織や個人のつてを介して確保した。こうして書いてみると、今回のワールドの発表のために取った方法論とまったく同じである。誰でも思いつくことだし、日常の授業に入れていくことを考えても、生徒にとっても取っつきやすい内容である。凡百の中に埋もれないようにするには、いかにより深くまた観点を変えてやっていくかがポイントになるだろう。
その後、オーストラリアのテンピ高校、モスマン高校、アメリカはオハイオ州のブラッシュ高校、そして今回招いたノース・カロライナ州のマクマイケル・モアヘッドの2高校と交流を続けてきた。これらの交流すべてに共通することは、相手校が日本語を学んでいるという点である。いかにインターネットでの使用言語が英語とは言え、常に外国語で交流を続けるのは、日本側の生徒にとって負担になるし、相手側から見れば日本人の生徒が必死に書いた英語でもだんだん物足りなさを覚えてくることもある。外国語を使っているといういい意味での緊張感を保ちながら、お互いがお互いの言葉や文化を学びあって初めて「交流」と呼べるだろう。
どうしてワールドを知ったか
ワールドユースについては、昨年影戸先生から「高校生の国際会議を開くので参加をしてほしい」との依頼をされたのが最初である。昨年度は職員団体の分会代表を務めていて、一定期間にわたって生徒指導をして発表までこぎつけるという仕事は、二つ以上のことを同時にこなすことができない自らの能力を鑑みてお断りし、当日のちょっとした通訳手伝い程度ならという条件で引き受けた。本番当日は、なぜか途中から司会をしていた記憶がある。
どのようなねらいで参加したか
今年度は、めでたく分会代表の任期も終わり、やってみたいことは一通りやってやろうという気分だったので、前年度から交流を始めていたノース・カロライナの学校に打診してチームを作って参加することにした。「ねらい」というほど大げさなものはないが、生徒自身にじっくり考えてもらい、自分の考えをまとめてもらいたいと思っていた。語弊があるが、「誤解から理解へ」といったテーマや、英文で原稿を作る等の点は二の次であった。自分で納得のいかないことをしゃべるほどばかばかしいことはないし、自分自身でまとまっていない考えを人前で話すほどやりにくいことはない。自分でじっくり考えたことを人前できっちり話して満足感を得る。これはすばらしいことである。
とは言え、実際の発表までの指導が自分にできるかと、自問自答してみた。発表準備までの手順は、大学の卒業論文を書いたことのある人間なら誰だって知っているはずのリサーチの手順と同じだから、教員なら誰でも指導できる。また、異文化理解に関する講義なら大学時代にどこかで受けているだろうから、今回のテーマならこれまた教員なら誰でも指導できる。発表用の英文指導も(英語科の)教員なら誰でもできるはずである。
よし自分にもできるはず。そう思って参加した。
4 ワールド奮闘記
ワールド参加までの動き
生徒の動き、プレゼン準備、メールのやりとりなど
とりあえず、ノートン先生とマクマイケル高校の生徒を招待してみようと思い立ったのが、昨年の2学期末のこと。ノートン先生に打診をして、交流のきっかけを作った生徒を連れてくることが可能かどうか確認をしてもらった。同時にこちらでもホームステイを引き受けてもらえる家庭を探した。さしあたって来日予定の生徒とメール交流をしている生徒を手始めに何人か打診した。3名分のステイは、一人だけ結構ぎりぎりになってきまったが、なんとか確保できた。7月になってから、ホームステイで使う可能性のある例文集を作成して、受け入れ先の生徒に手渡した。
新学期になって「誤解から理解へ」というテーマが出され、意識調査のアンケートを元に発表をするという基本線が出される。それを受けて、意識調査アンケート項目を考えた。この時点では、国際コース40名の生徒のうち誰が発表を担当するかは決まっていなかったため、全員にアンケートの項目を考えてもらい、整理した仮案をアメリカ側に送付した。その仮案の項目に修正を加えてきちんと英文になったものが帰ってきたのが5月下旬であった。アメリカの学年末で授業が終わる寸前にモアヘッド高校でコートニーにアンケートを取ってもらい、114名分の回答を確保してもらった。こちらも3年生と2年生の国際コース計二クラス、そして1年生一クラスでアメリカとほぼ同数の110名のサンプルを確保した。アンケートサンプルは同数比較というリサーチの基本をはずさずにすんだ。
また引き続いてアメリカの学校の学年が終わる6月上旬までに駆け込みで、さまざまな発表用資料を送付してもらった。アメリカの学校紹介パワーポイントファイルとマクドナルドの価格表(これはすべてカラーで打ち出してワールド会場に掲示)、そしてこの時点で、持ち時間の中の使い分けで唯一決まっていた「交流紹介」の原稿などであった。
またこの頃、ビデオ会議で施設・設備・技術の協力をしてもらっていたロッキンガム・コミュニティ・カレッジのトゥイーディー準教授の来日ができないことが確定。逆にその状況を利用してオンライン参加してもらうこととなった。準教授は深夜だろうと未明だろうといつでもいいよという実に心の広いお方である。
バスツアーや参加名簿作成などワールドユースの運営にかかわる仕事を西陵の国際コース40名で行うことが正式にアナウンスされたのが、5月下旬の沖縄でのサミットプレイベント参加後のこと。影戸先生と相談して決めた仕事内容を説明したプリントを国際コースの生徒に示したのが6月上旬。それにそって希望を書いてもらったものの、6月中旬の合唱祭に向けて生徒は練習に励むため、ワールドの準備は中断。
またこの時点でアメリカの生徒は全員卒業していたので、共同で準備作業をすることが不可能になっていた。基本的にはとりまとめのノートン先生に資料をメールで送付し、それに対するコメントなどを生徒からメールで送ってもらっていた。
本格的に動き出したのはその後。本番一ヶ月前である。私が担当したのは5名の発表チームと、5名の司会チーム。計10名である。そのほか、生徒のパーティー司会進行の英文原稿や、伊勢ツアーのパンフの原稿用英文などもあった。MLでは自己紹介が多数行われていたが、ステイを引き受ける生徒同士の自己紹介はすでに昨年の秋の時点ですんでいたし、ステイに関する細かなやりとりはMLに流す必要はないので、それぞれ個人的におこなわせた。また司会・発表チームの生徒の大半は、来日するアメリカの生徒とは直接メール交換をしていなかったが、自己紹介のメールを打つことよりも、発表内容を考えさせることに時間を使う方がはるかに重要と判断し、自己紹介メールは一切やらせなかった。
発表内容の準備段階では司会チームにも意見を出してもらった。またパワーポイントは司会担当ではあったが、技術を持っている生徒に作成してもらうことになった。
6月下旬から期末考査が始まるので、それまでにアンケート結果を集計し、一定の意見を生徒に考えさせたかった。興味の度合いをしめす1〜5の数の集計に加えて、両国に対して持っているイメージを書いた文の整理が大変であった。この「イメージ文」はある程度分野別に整理し(食習慣・気質など)、一つずつコメントを考えさせ、(例えば「日本人は礼儀正しい」とアメリカから書いてあるのに対し、「全員そうとは限らない。」など)、それをまた相手国に送り返して見てもらい、全体を通した感想を発表用に書いてもらった。
また、この頃までに、西陵とマクマイケル高校・モアヘッド高校の「国際理解」の授業で偶然同じ映画「ガンホー」を教材として使っていたことが判明。日米の異文化衝突を描いた内容で、ワールドのテーマにふさわしいと判断し、発表の中で紹介しようと決定した。
興味の度合いを示す1〜5の数の集計ができあがったので、その部分だけ試験的にパワーポイントのファイルを2枚だけ生徒と一緒に考えて作ってみたことと、持ち時間を5つのパートに分けて「交流紹介」「アンケート分析」「交流による意識変化」「教材としての映画ガンホーの紹介」(トゥイーディー準教授のオンライン参加)「誤解→理解のまとめ」とすることに決定したこと、そしてそれに対する日本側5名の発表生徒の割り振りが決定したことが、期末試験突入直前のことであった。
試験最終日から準備再開。なぜ外国に対して誤ったイメージを持ってしまうかということと、「誤解」の意味の2点をを生徒に考えてみなさいと指示を出した。しかし、生徒からは、話のとっかかりがない、抽象的な話になってしまうとの声が相次いだ。そこで急遽「討論用シート」を作成し、そのシートに書いてある質問項目に個人的に答えさせて、それを単純に列記したものを発表の該当部分を担当する生徒に渡して、要約しながらまとめさせる形で発表原稿を作らせた。これで作業が効率よく進んだ。
特に「アンケート・イメージ文分析」のまとめは膨大な量になり、後述するが時間の関係で大幅に割愛せざる終えなくなり、担当生徒には大きな苦労をかけた。このまとめだけでも1時間程度は費やせるだけの質と量はあった。
7月7日の七夕を記念して、日本側の発表原稿第一稿が出そろった。このころ発表時間内に映画「ガンホー」の1シーンを上映する許可を、直接アメリカのパラマウント社にメールで要請するも許可が下りなかった。ジャケットの画像のみハンドアウトに使用した。
7月11日の生徒来日に会わせて、パワーポイントファイルの本格的な作成を開始した。完成したものの、名古屋の前の滞在先である栃木でのインターネット環境が今ひとつで、枚数が二十枚弱で画像もたくさん入ったパワーポイントのファイルが先方にうまく届かなかった。最終的に1枚ずつにばらして送付して、確認してもらった。
原稿読みの練習も同時に行い始めた。思いの外時間がかかった。単純に読むだけでも40分以上かかってしまった。本来発表の中心であり、じっくりやりたかった「アンケート・イメージ文分析」の原稿の削減に取りかかった。単純な量で他の部分の倍以上の原稿量であった。
7月の17日18日に朝から夕方まで行う形式の保護者会が二日間設定されていて、また準備が中断。19日の終業式も、翌日からの教員採用試験会場準備のため、生徒が午前中で学校外に退去させられて、全員集合してのまとまった準備ができなかった。
21日の昼、名古屋駅でアメリカチームと合流。教員採用試験が終了する5時までJRのツインタワーや名古屋城で時間をつぶした。4時に学校の応接室を使わせてもらって、パワーポイントファイルを共同で修正した。5時に学校のインターネットルームに入り、まず当日配布のため250部用意したハンドアウトの綴じ込み作業を全員協力して行った。その後、アメリカチームを交えた合同の通しリハーサルを始めて行った。日本側の原稿は短縮しておいたものの、それでも当日オンライン参加するトゥイーディー準教授の時間を入れると45分かかった。アメリカチームのパトリックに原稿の再編集を依頼した。
22日の縄のアクティビティの合間を縫って、読み・原稿再編集・パワーポイントのクリックのタイミング調整など準備を行った。
夜のパーティー終了後の7時過ぎから準備作業に入れるはずだったが、準備会場が空かないので、ロビーのソファに急遽集まって最終リハーサルに入った。この段階でもまだ時間がオーバー気味だったので、最後の原稿編集をした。ノートン先生はじめ、アメリカの生徒が総動員で英文編集に取り組んでくれた。これだけは言いたいという内容ははずしたくない、しかし時間の制約もある。ぎりぎりの選択であった。パワーポイントのクリックのタイミングも確認を終え、夜9時過ぎに全員でのリハーサルは終了した。何名かの生徒は一つの部屋に集合して、もうしばらく読みの練習をがんばったとのことである。
当日の午前中、私は全体のリハーサルの運営があるので、生徒の指示はノートン先生にお任せした。午前中にロビーで行った最終読み合わせではぴったり時間内に収まったと、ノートン先生から報告を受けた。
そして、本番。午前中ではぴったり収まっていたはずの発表が、予想外に時間を使ってしまう結果となった。ビデオ会議システムの中断も痛かった。しかし、生徒たちは、実に堂々と発表を行っていた。それを見られただけで、私としては満足であった。
5 生徒はどのように育ったのか
昨年度から「国際理解」の授業で行ってきた、異文化に対する考え方の講義や、討論授業、物怖じせずに手を挙げて意見発表をする姿勢を持とうという呼びかけ。それをきっちり全部体現してくれた。よくここまで育ってくれました。
6 教員として得たもの
内容は上記に同じ。自分が生徒に与えてきたものを、その生徒たちがきっちり返して見せてくれたこと。教師にとって最高のプレゼント。
7 まとめ
ま、これも給料のうちでしょう。